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ドキュメント内 成立期日本信用機構の論理と構造(完) (ページ 42-56)

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『銀行通信録」「大阪銀行通信録」「営業広告」より作成

()内の数字は各行の預金/資本金比率

□内の数字は各グループの平均預金/資本金比率

各グループの平均預金/資本金比率が四をこえるものを太い実線一で,三に達しないものを-

......-でかこた・

で,二に達しないものを

73成立期日本信用機構の論理と構造(完)

の資金調達をめぐる「原則」は、ここでは掲げなかったが明治三八年末すでに確認することができる。個盈の変動はあっても全体の構造は大正二年も明治三八年もほとんど変るところがないことからすれば、日本の預金銀行は金融恐慌後四年を経ずして一挙にその形をととのえたと考えることができる。第二に、借入金比率三割の調達「原則」を守らない「非預金」銀行は、極く小数にかぎられ、それも預金量四百万円以下に集中している。預金瞳の少い三八年においても四百万円以下に分散していることからすれば、八年のあいだに「非預金」銀行の領域は相対的に一層下方に狭まったといえよう。借入金/預金比率が三割以上一○割以下の領域に属するものの多くは、第七十四、第十九、高岡、第三十六銀行など生糸・織物金融を柱とする地方銀行であり、一○割を超える領域には、藤本・増田両ビルプローヵーや証券売買を業務とする紅葉屋銀行と都市の小銀行四行からなる。三八年の段階では、第二の証券・ビルプローヵー型は未だ登場せず、一一一割の限度をオーバーする「非預金」銀行の多くが生糸・織物金融型であった。そのうち第二、第十二、第六十九、肥後、丁酉銀行などが八年後には三割の限度内へ借入金を抑えるのに成功したにもかかわらず、生糸・織物関係の地方銀行が集中的に取り残された)」とは、生糸・織物金融に未だ資金需給上の多くの問題をかかえていることを示している。第三に、預金、借入金とならぶもうひとつの資金調達源である資本金とのかかわりを明らかにするために、各銀行の頭に資本金に対する預金の比率を付記し、各グループの平均値をその上段に、Uで表わした。全体的な傾向としては、借入金/預金比率が小さいほど資本金に対する預金の比率は高くなること、また確度は少し劣るが、預金

量が大きいほど預金/資本金比率が高くなることが見出せる。これらの傾向に留意しながら、いま表中にグループ

の平均預金/資本金比率として二割、一一一割、四割の三本の限界線をひくならば、相互の関係は一目瞭然となり、いくつかの類型が浮かびあがってくる。

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まず資本金に対し預金が平均して四倍以上に達するグループを抽出してふると、借入金ゼロの六グループ全て、

借入金/預金比率が○’一割で預金麹が千五百万円以上の巨大銀行と四百万円’六百万円の中堅銀行の二つのダル1プ、それに飛地のような二つのピルプローカーを含む借入金比率一○割をこえる預金量二百万円’四百万円のグ

ループの合計九グループからなる。異質なピルプローカーをのぞけば、残る八グループは全て借入金比率がゼロか または一割未満であり、その重さなりあうところに預金銀行類型が析出する。預金銀行類型として他から区別する 一応の指標として、預金に対する借入金の比率が一割に達せず、かつ預金が資本金の四倍以上であることにもとめ

れば、一五四行中五○行、全体の一一一割二歩に達する。その典型は、三菱を筆頭に一一一井、住友、川崎、加島など東京、

大阪の巨大銀行にもとめることができるが、預金量の劣る中小銀行にも第百四十七、八幡、奈良第六十八あるいは 防長銀行など実に多くの地方銀行が巨大銀行に劣らない実績を残している。このことから、移植された預金銀行の

根が全国に地中深く定着しつつあった』」とを察することができよう。

次に、預金が資本金の二倍に達しないグループを選び出してゑると、表中左下の一隅に集中する。それは、さきに染た借入金比率三割を順守しないグループのうちビルプローヵーの一群をのぞいたものとほぼ重さなる。さらに預金/資本金比率を二から三に拡大して承ると、その領域は底辺を中心に一挙に拡大し、ほぼ左上りの対角線の左下半分をおおう。三二年当時(第四表)においては、この左下半分の領域は預金/資本金比率が一以下であったことを想い起せば、一四年のあいだに預金は借入金との関係ばかりでなく、資本金との関係でもかなりの進展を象たことがうかがえる。第四表において析出した三四年金融恐慌以前の基本型すなわち預金、資本金、借入金がほぼバランスした未分化な「鞘取」銀行は三つの方向に分化してゆく。借入金への依存を強めた数少い銀行(I行AIF列)の流れから、独自のピルプローヵー範騎(1.,)が誕生する。大半は預金の比重を高め、さきにふた預金銀

75成立期日木信用機榊の論理と構造(完)

行へ転化していったが、第Ⅱ。Ⅲ行に属する生糸。織物型諸銀行のように、その上昇転化が充分進まず、いまだなお未分化の境涯をさまよっているものも多い。借入金依存についてはかなり解消されたのであるが、自己資本依存

の解消はそれほど進んではいたい。たとえば預金が資本金の二倍に達しない銀行は四○行で全体の二割六分に及び、

一一一倍に達しない銀行を加えると六六行、全体の実に四割三分を占める。自己資本の比重を高めてゆけば、金融「媒介」を営む投資銀行に結実してゆくはずであるが、日本においては自己資本への高依存にもかかわらず、この上昇転化の力は極めて希薄なものでしかなかった。この流れの最先端に表中右上の巨大な十五銀行(Ⅵ。A)があり、つづいて第Ⅳ。V行とB・C列の交叉するところに東京、明治商業、丁酉、豊国、帝国商業などの中堅都市銀行が現われ、さらに交叉線の左下半分にひろがる広大な領域に接続する。それは交叉線の右上半分にひろがる預金銀行群に充分匹敵する領域を占めながら、日本信用機構を自らの方向へ再編するだけの力をもちえなかった。明治三一年一○月その先頭に立つ十五銀行は元横浜正金頭取園田孝吉をむかえることによって、老大な自己資本を有価証券(1) へ投資するという投資銀行の経営戦略を捨て、預金銀行化の大勢に身を委ねたのである。このとき成立期日本信用機構において投資銀行へむかう可能性は預金銀行の流れに圧倒されてしまったといえよう。上昇転化の力を失ったこれら自己資本依存の顕著な多くの銀行は、投資銀行というよりは未分化の「高利貸」的色彩の濃い銀行類型とするほうが適切であろう。なぜなら自己資本への依存が高いのも、資本金を積極的に拡大してゆくというよりも、菰金の吸収が思うにまかせないという消極的理由によるものであったから。

明治三四年金融恐慌の直前、預金と資本金と借入金が拮抗しあう未分化な日本の銀行信用は、預金銀行と投資銀行とピルプローヵーを生みだす三つの可能性を蔵していた。その後の再編成のなかで、オーパーローンの解消すなわち預金と借入金のバランスの解消はかなりすゑやかに進承、預金銀行とピルブローヵーの二つの範鴎を生象だし

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たのであるが、もうひとつの課題の「高利賛」的性格の払拭すなわち預金と資本金の拮抗関係の解消は、第一の動 きにくらべるとテンポは遅くかなりなまぬるいものであった。それゆえ預金銀行と投資銀行との分化は明確なもの とならず、「高利貸」的地盤をその深部から一挙につき崩すことはできなかったといえよう。この点に一一一四年金融 恐慌後ようやく確立期をむかえた日本の預金銀行体制が胎む限界と特質の一面をみることができる。

(1)荻野仲三郎「園田孝吉伝」(T一五・四)一九一一一-四頁

二小切手流通と預金銀行

明治三○年代漸く日本の普通銀行群は、上層から次第に日銀依存Ⅱオーバーローン体制を脱却し、預金銀行とし ての体制を整えていった。しかしこの日銀借入から預金への資金源の転換をもって預金銀行の確立と宣することが できるであろうか。それは預金銀行の確立を示す最も簡明な指標ではあるが、預金銀行体系のうちに作動する原理 あるいはメカニズムをさぐろうとするとき、その外皮の極にもう一歩踏糸込まなければ、全ては暖昧な輪郭のまま にとどまざるをえないであろう。古典の世界においては、発券集中・独占の過程のなかで中央銀行によって戦略的 な信用手段である銀行券の発行権限を奪われた諸民間銀行が、どん底から再び立ちあがったのは、預金通貨すなわ ち小切手流通を自力で櫛築しえたからであった。銀行券の根抵を貫ぬく「受ける信用で貸す」という近代的な銀行 原理を、当座預金取引という次元の異なる新たな形態に拠って再び掌握しえたからこそ、中央銀行からは自立した ひとつの世界を再び築くことができたのである。預金銀行体系とは、手形流通I小切手流通l銀行券流通からなる 重層的な信用機構を意味する。中央銀行日銀の成立によって銀行券という戦略武器を奪われ、丸腰のまま放り出さ れた増大な銀行群が、預金銀行として自立しうるには、預金通貨すなわち当座預金Ⅱ小切手流通の拡充にその全てが かかっていたのである。手形流通と銀行券流通の二元的世界から手形流通l小切手流通I銀行券流通の重層的な世

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